庭屋一如(ていおくいちにょ)
庭屋一如(ていおくいちにょ)という言葉があります。
元来、桂離宮までとはいわずとも、日本人は庭と家屋を一体で考える思考をし続けてきた。
客人に庭を見せるための座敷。そこが家の中心であって家づくりの目的であった。
自然というものは移ろうもの。それを「風流」と呼ぶ。
庭とは自然の縮図であって一時として同じでなく見飽きはしない。
「風流」を貴ぶ者は「数寄者」である。 賛美眼を持つものとして本物である。
日本人は伊勢神宮の例えでもわかるように、「人間は自然の一部である」という価値観を有してきた。西洋の「人間は自然を支配できる」という価値観とは異なる。
身近に自然を置きたい。それが庭である。
庭と家は一体
と 大げさに書いたが、そこまでとは言わぬが、庭が家にあると暮らしは潤う。
窓からの景色は毎朝のごちそうだし、子供の遊び場ともなる。
「家」と「庭」と書いて、「家庭」となる。
庭が無くちゃぁ始まらない。
だから、ホームページの設計思想にあるように、オーガニックスタジオ新潟の設計ルールのその1は、庭屋一如で、建物は外構と一体で設計することとしている。
「金衛町の家」は、前の持ち主の趣味で作られた純和風の庭があった。
松が仕立てられ、石材がごろごろとある庭である。
中古住宅で手に入れた住宅は、庭については「どうしていいか分からない」
使うに使えない庭で もてあまし、管理もされることなく厄介者であった。
庭がリメークで生まれ変わった
そこで奇岩と針葉樹は取り除き、雑草も取り除き、
枯山水の川は埋められて芝庭として広々として、
岩のふち回りなどに下草で修景して、
庭を実用的でかつ見飽きしない物へとリメークした。
古い庭にあった灯籠などもひっそり再利用。
鳥が水を飲めるように、さらにぴちゃんぴちゃんと「水の落ちる音を楽しみたい」と蹲踞(つくばい)を設けて点景とする。
(残念ながら真空トリプルガラスの遮音性のおかげで、網戸のシーズン以外は何も聞こえはしないが)
この家にはもともと立派な滝がある。そこから鯉池となって水をたたえていたはずだ。
田中角栄の影響で、昭和40年代に経営者の間で非常にはやった錦鯉の池。
管理が面倒になり埋め立てられ、枯山水になっていた。
ここは最大の見せ場であっただろう。
それを掘り起し止水を復活させ、底に田の土を敷いて姫スイレンを植えよう。
鯉池ではなくビオトープ。錦鯉でなくてメダカだ。
ここは雨水の調整池でオーバーフローの排水を設けた。
庭が暮らしと意識を変える
庭で緑化され、気化熱で敷地は冷やされる。
何もない家と比べれば 夕刻からは明快に違いが出るだろう。
当初は「絶対管理はできないから芝生はやめてくれ」という施主に、外構工事の瀬戸際になって説得して、芝庭にしてもらった。
奥は自然実があふれ、縁となる石の手前は開けて抽象的。バランスが取れていてきれいになった。
それを見た旦那様、「子供も外に出たがっている。俺も芝の手入れ、やってみるよ。」とおっしゃった。 意識が変わったようで、とてもうれしい。
よく考えれば、雑草を手で抜くよりも、草払い機でガァガーと払ったほうが数段楽だ。
奥様も出来上がった庭を見て「感動しました。」との最上級のお言葉をいただきました。
20年ぐらい住宅やっていて「感動」のお言葉をいただいたことはかつてないかもしれません。
苦労が報われた作庭でした。
殺伐とした日本を ちょっとは良くするために
世間には「葉っぱが落ちるから木を抜いてくれ!」と隣の家にクレームをつける人も実際に経験したことがある。
大地から草が生えてくるのが嫌だからコンクリートを張り巡らせるだけの人も多くいる。
「ずるむけハウス」というしかない。
景色の潤いも無くし、夏になれば コンクリートの照り返しと蓄熱に文句を言い、
窓を閉め切ってエアコンをつけっぱなしにする。
レースのカーテンを閉め切りっぱなしで、すべてにおいて内向きな家が出来上がる。
そうして街並みは一層 殺伐とする。
日本人というのはそんな民族だったのだろうか?
「人間は自然の一部なんだよ。」と、
ほんの小さな庭でもいいから感じられる部分を設けたいところです。